政治家の討論(言葉)!
昨年末、「今年は党首討論ゼロ」という新聞記事が目立った。党首討論は国会審議と違い、「幅広い視野で、国の行く末や基本政策を論じあう場だ」(朝日、社説)確かにそうであってほしい。しかし、最近の〝党首討論〟は予算委員会の二番煎じの繰り返しのようである。もっぱら野党の質問態度に責任を感じる。予算員会では自分の言葉で論戦しないで、もっぱら持ち込んだパネルの説明をしている。そのパネルもTVを意識して、視聴者に向けて解説しているからなお滑稽に映る。やがて党首討論にもパネル持参ともなりかねない。▼日本における党首討論の導入は、1999年、自民党と自由党が連立を組む際、自由党の小沢一郎党首が提起したといわれている。導入に当たってはイギリス議会のクエスチョン・タイムが参考にされたと聞くが、クエスチョン・タイムは、まさに質問時間であるが、日本に導入されたのは双方向の党首討論である。しかし、特に野党側からしばしば両者は混同されてきたようだ。▼当の小沢一郎氏も、最近あまり開かれないが、「政府の傲慢さと野党のふがいなさが原因だ」(「小沢一郎の権力論」2017・12・30発行、朝日新書)と主張している。現在の与野党の議席構成では、一強に対し多弱が結束して、主張の的を絞り分担して論戦に臨まなければ、「言論の府」に相応しい討論は期待できまい。それにしても、最近「政治家から演説が消えた」と批評されているが、今年こそ、政治家の言葉の復活元年になること期待したい。
(立井 大楠)